孔子【論語】学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。明あり遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。
子曰く、
学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。明あり遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。
師は言った、
学んだ事は何度も復習し行動し、自分の物にする、これがなんと嬉しい事か。
そして学問を自分の物にし、知識が豊かになれば道を同じくするものが遠くからでもやって来て学問について話し合うことになる、これがなんと楽しいことか。
たとえこうした生き方が他人にわかってもらえなくても気にかけたりはしない、こんなに幸せ何なのだから、これこそ君主と言えるのではないのか。
●学(マナ)びて時(トキ)にこれを習(ナラ)う、亦(マ)た喜(ヨロコ)ばしいからずや。
学んだ事を何度も復習し、自分の物にしていく、こんな嬉しい事があるか。
孔子は言います。知識を学び、学んだ事を機会ある事に確認し実跡に移し復習する、それがどんなに嬉しい事か。
人は一度得た知識をすぐ分かった気になり、口には出すが本当に理解しその言葉に見合った行動を行なっているのか?その言葉は本当に自分の言葉なのか?知った事をただ喋ってるだけではないか?
得た知識、正しいと思った事や間違いだと思った事、人との対話だったり本を読んでだったり1人考えてて思った事などいろんな場面で知る事があります。それをただ知ってるだけで他人に自分の正当性を主張したり人の悪い所を指摘し優越感を味わっているだけだと口だけは立派で確かな事言うけどなんだかなぁ、、、と思う人を見る事があります。
だからこそ自分も気をつける為、得た知識を何度も思い返し、行動し、人に伝え、また自分を見直す。それを繰り返すうちに考えなくても、自然と心から自分の言葉として相手に伝えてます。そんな自分の心の成長を感じる時、それが正しいからとかの思考ではなく自分がそうゆう性格になって行くのを感じる時、とても嬉しくて自分に自信が付き、また幸せが増えた気がします。
自分は孔子のこの言葉をこのような時と重ねます。
●明(トモ)あり遠方(エンポウ)より来(キ)たる、亦(マ)た楽(タノ)しからずや。
自分を師として弟子が遠くからでも訪ねてくれる、そして弟子と語り合う、これがまたどんなに楽しいことか。
道を同じくするものが遠くからでも訪ねてくれる、そして学問について語り合うこれはまたなんて楽し事か。
「類は友を呼ぶ」みたいなものでしょうか、笑。共通の趣味がある者同士、そんな友が遠くからでもやってきてくれて好きな趣味について語り合う、そしてまたお互いにその道を深めあって行く。確かにこんな幸せな事ありませんね。👏🤓🤓🤓
●人知(ヒトシ)らずして慍(ウラ)みず、亦(マ)た君子(クンシ)ならずや。
自分の価値を他人に認めてもらおうと意識して、認めてくれないからと怒るものでは無い。
立派な人間とはそうゆうものだ。
確かに、、これは最初の「学びてこれを習う、亦た説ばしからずや」と繋がる気がします。
自分は正しい事してるのに、自分は立派なのに、こんなに優しくしているのに、なんでわかってくれない?何で認められないんだ?そんな事思う人はただ正しいと知った事を自分の承認欲求為に行って居るだけと思えてしまいます。それは結局何処かで見返りを求めてしまっていてその言葉、行動はまだ自分の誠の本心では無いのでしょうか。だからこそ学んだ事を何度も復習し、実行していく。いつかそれが性格となり考えなくても自然とそう思えるようになるだろう、それこそが孔子の言う君子なのではないか。
だからこそ人に認めてもらえないからと恨んだりせずに何度も復習と行動を繰り返しいつかその知識を自分の物にする。君主になれてなくてもその行動と、意志だけでも充分素晴らしい価値があると自分は思います。